学びとは何か――〈探究人〉になるために

この本では、その意味で人間の変化を、環境の影響を受けつつ、多くの要素同士の相互作用によって生じる「無意識的なメカニズム」と捉え、その過程を「創発」というキーワードで捉えようとするのだ。これは、人間の成長や変化をコントロール可能なものと考える従来の教育観(「教えたらできるようになる」という教育観)とは大いに異なるものだろう。

本書は、それぞれの章の冒頭に「その章のまとめ」が書かれているために非常に読みやすい。それらの主張をさらに簡単にまとめると次のようなものになる。

「能力」なるものは存在しない。それが人間の内部に安定的に存在する仮説は誤りであり、実際には知的営みは文脈依存性が大きい。

知識が人から人へそのまま伝わる事はない。知識(有用な知識)とは、本人が経験のネットワークの中で、さまざまな感覚の競合・強調によって構築するものである。

練習による上達は、直線的には進まない。それは複数のリソースの相互作用の中で複雑なうねりとなって表れる。

発達は段階的に進むわけではない。子どもは複数の認知リソースを持っており、使用頻度の高いリソースの割合が変化する過程を、他者が「発達」と認識するのである。

ひらめきは、理由なく突然訪れるのではない。身体を用いた環境との相互作用の中で、多様な試行が行われた結果として制約が緩和され、訪れるものである。

これだけだと「何のこっちゃ」と思われる方もいると思うが、それは本書をお読みいただきたい。少なくとも、上記のまとめの太字部分を読んで「え、そうなの?」と興味を惹かれた方は、この本を読む価値がある。

複数のリソースによる「揺らぎ」が発達を生む

個人的に一番面白かったのは第4章だ。この章では、ピアジェらに代表される「発達段階」という考えがそれまでの「漸進的成長」という考えを否定して子どもの独自の価値を認めたことの歴史的意義を認める一方で、1980年代あたりからこの考えに反する実験結果が次々と出てきたことを主張している。そして、発達を「複数のリソースのせめぎ合い」のモデルで捉える。その際に、複数の相反するリソースが同時に起きてしまうような「揺らぎ」ことが、次の発達を生み出している、と主張しているのだ。この辺の話は、「発達」が一筋縄ではいかないものを示す話として非常に面白かった。

学校教育への示唆

また、筆者はこうした知見をもとに、第6章で学校教育への示唆も述べている。「問題があり、正解がある」「基礎から応用へ進む」「考えるのは頭の中である」「知識や学習は転移する」「スモールステップで教えることが大事」などの「素朴教育論」が、いかに実態から離れているか、そして創発を阻害するかを述べるくだりは、読んでいて思わず笑ってしまう。ただ、実際に学校教育に関わっている人なら「じゃあ、どうしろって言うのよ」と言いたくなるだろう。僕も言いたくなる。

では、それに対して筆者はどのように述べているのか。それは本書をお読みいただきたい。ヒントになるのは、「徒弟制」、状況的学習論である。これは国語科で言うと、下記エントリで引用した「実際に言語文化が立ち現れる実の場を再現しつつ、それに即した真正な学びを通して、言語文化そのものに馴染んでいくような学び」ということになるのだろうか。