「文章題ができない子」のつまづきを丁寧に分類する。今井むつみ、他『算数文章題が解けない子どもたち』

独自に開発したテストの分析が中心
本書は、筆者たちが開発した「ことばのたつじん」「かんがえるたつじん」という2つのテストの設計・実施・分析の報告である。そのせいか文体も一般書というよりはやや報告書チックなのだが、内容は面白い。2つのテストの結果を踏まえて、「できない子」がどこにつまづくのかを丁寧に類型化しているのだ。それに冒頭の、そもそも「全国学力調査」をはじめとして算数や国語のテスト、知能テストも山ほどあるなかで、なぜわざわざ新しいテストを開発したのかというくだりからして面白かった。筆者たちの「生きて働く学力を測るテストを作るのだ」という信念がうかがえる。

個人的な注目ポイントはこちら
この調査では、そんな問題開発の意図から始まって、実施の結果、そして誤答の基本的パターンの分析まで事細かに書いてあるのだが、それをここに詳しく書くとネタバレにすぎるので、ここでは個人的な注目ポイントを少しだけ書いておこう。

子どもは、文章中の数字を、自分の計算のしやすさのために勝手に変えてしまうことがよくある。
「1」に、序数詞の「1」(1個、1cm…などの「1」)に加えて、「全体」や「単位」を表す比較の基準としての「1」(割合や分数で全体を「1」とするときの「1」)があること自体が、多くの子にとってすでに難しい。序数詞の「1」が強烈なスキーマとなって、後者の「1」を学習できない。
算数や国語の学力の説明に結びつくのは、「空間や時間を説明する言葉の運用能力」である。
高学力層の子は、自分にとって重い認知的処理に、何らかの方略で工夫して推論を働かせることができる。低学力層の子は、負荷に負けて推論ができなくなってしまう。
上の①や②の話は、これまでも聞いていたことのある話だが、実際の事例をたくさん見せてもらえて納得。言われてみると、「1」に複数の意味があるの、めっちゃややこしいよね….。また、今回の読書で一番面白いなと思ったのは③の部分。「空間」や「時間」を相対的に説明する言葉の運用能力(「帽子が椅子の左にある」や「7月14日の2週間後」などの表現)が、算数や国語の学力を説明するっていうのが意外すぎた。でも、どうしてそうなのかは、最後(p180あたり)の説明を聞くと納得します。興味を持った方はぜひ読んでみてください。

なお、空間や時間を表す言葉に関する小ネタとしては、空間では自分の視線の方向を「前」を意味する前が、時間軸だと「後ろ」を意味してしまうという話も面白かった。「自分の2人ぶん前の人」の「前」は、自分の視線の方向を指すのに、「2週間前」の「前」は自分にとっては後ろ側の「過去」を表すの、確かに「前」や「後」という言葉を習ったばかりの子からしたら、混乱の元でしかないね…。
「読めない」を丁寧に紐解く一冊
というわけで、本書は、こういう学力と言葉に関する小ネタを挟みつつ、全体としては「文章題が読めない」の「読めない」の内実を、テストの分析を通じて丁寧に紐解いている。まあ、分析手法の妥当性については僕はコメントできる立場ではないので、そこは専門家の方に評価をお願いしたいが、論述の進め方はとても手堅い印象だ。

その「読めない」の内実は、知識が断片的でシステムになっていなかったり、誤ったスキーマを用いてたり、認知処理の負荷に対して対処できなかったり….。全部で7個に分類されたこの原因は、算数ができない子が「どこでつまづいているのか」を僕らが見とる参考になるはずだ(もちろん、現実にはこの原因は絡み合っているので、そう単純な話ではない)。

ただ、正直な気持ちとしては、全体として子どもたちのつまづきポイントがわかればわかるほど、「学習指導要領の範囲の算数ってそもそも小学生がやるのには難しすぎるんじゃないの?」という気にもなってしまう。この本では「1」を理解する難しさが取り上げられていたが、僕の知る範囲では「等号(イコール)」の意味が説明できない子も少なくないし、「わかってないけど作業だけできている」ことが実はとても多そう。もちろん優秀な子にはそんなことないんだろうし、その他の子にしても「作業だけできる」段階が「わかる」段階の前にあるのだと割り切れば良いのかもしれない。でも、そもそも算数で求められている概念的理解が「背伸びさせすぎている」んじゃないかなあ。その結果、実際には多数の小学生が小学校の算数の段階で取り残されてるんかも…。

具体的にどう指導すればいい?
では、「そういう取り残された子たちに、具体的にどのような指導法が良いのか」ということは、残念ながら本書の守備範囲外である。前書きによると、これについては別に本が用意されるらしい。本音を言うと、この本でそこまで書いてくれると嬉しかったな…と思わなくもないけど(笑)、一章で収まるボリュームではないそうなので、新刊を楽しみに待つことにしよう。

なお、本書のテーマ「算数とことば」については、広瀬友紀『ことばと算数 その間違いにはワケがある』も最近出たばかり。こちらはきっと『ちいさい言語学者の冒険』的なノリで、お子さんの誤答サンプルが分析の中心かなと思うが、こちらも読んでみたいところだ。

 

自分の「正しさ」に酔わないために。松岡亮二「教育格差」

松岡「教育格差」によれば、上記の「3000万語の格差」の結果の一般化には留保が必要なものの、SES(家庭の社会・経済的地位)による言語刺激格差が子どもの言語技能格差になっていることや、親子の会話量とその質が子どもの言語能力の発達に重要であることなど、基本的な線は様々な研究で支持されているとのこと(p85)。つまり、幼稚園に入る前の段階から、経験の差は始まっているのです。

義務教育での学力格差の固定
この環境差は、幼稚園、そして小学校に入ってもそのまま維持されます。高SESの家庭は蔵書量が多く、子どもの年間読書量も多い。経済力の影響を排除しても、高学歴の父母ほど読書しており、父母が読書量を増やすと子どもの読書量も増える。ここでは、読書習慣の世代間伝達が起きているのだと言えます(p117)。

また、国際学力調査TIMSS2015によれば、子どもの小学校入学時点での読み書き能力に関する親の評価(とてもよくできた・まあまあできた・あまりできなかった)が、小学校4年生の時点の算数と理科の成績と強く関連しており、この小4時の学力差は、小学校卒業時点まで埋まりません。

さらに、埼玉県独自の学力調査では、小6から中3までの家庭の蔵書数と学力の経年変化について調査されていますが、ここでも、家庭の蔵書数が多い方が学力が高く、この学力格差は小6から中3まで埋まらずに続きます。

つまり、様々な調査は、地域・家庭要因で生じる小学校入学時の格差が、義務教育終了時まで温存されることを示唆しているのです。

「生まれの差」を「努力の差」に読み替える高校
そして、高校。日本は世界的にも特異な(というのは僕もこの本で知ったのですが)、高校段階で学力格差を拡大・固定化する仕組みを持った社会です。つまり、高校入学時点の学力で、高SESに支えられた高学力の子は高学力の学校へ、SESが低い低学力の子は低学力の学校へ進み、それ以降、その世界がその子にとっての「普通」になる。義務教育までは「平等」(ゆえに格差を縮めもしない)を装っていたのに、高校からはその格差が露わになる。しかも、入学試験という儀式を経ることで、「生まれの差」によって生じた格差が「努力の差、能力の差」に読み替えられる。低いSESや学力の子は、同じ境遇の子ばかり集まる学校で、学校への期待値も本人の将来期待値も低いまま。一方で、高いSESや学力が集まる学校の生徒は、同じ仲間に刺激されてより勉強をし、学校にも誇りをもつ。本書からは、そんな分断された姿が浮かび上がります。

総じて、学校(小学校・中学校・高校)は格差の縮小・平等化機能は持っておらず、家庭(経済力、家庭週間)や地域(どんな人が地域にいるか、どんな風に過ごすのが「普通」か)によって、子どもの将来は緩やかに決まってしまう。それが、ずっと前から続き、今さらに強まりつつあるのが、現代の日本社会です。

自分の子供時代を振り返っても…
こうした主張は自分の過去を振り返っても、頷けることばかりでした。経済的に恵まれた東京の家庭に生まれた僕は、幼少期からたくさんの本を親に買ってもらい(代わりにテレビアニメやゲームは禁止)、放課後は各種の習いごと。やがてその習い事が中学受験塾に代わって、中学から国立の中高一貫校へ。そこでは僕と同等かそれ以上に裕福な家庭の子どもが多く、今、親になった同期生のほとんどは、子どもを小学校か中学で受験させるのが当たり前の価値観を持っています。

たまたま裕福な家庭に生まれた人間が、幼少期から様々な恩恵を受け、次第に異なる生活環境の同世代のクラスメートを遠ざけ、同じ階層出身の人たちをコミュニティの仲間として選ぶ。要約すれば、僕の子供時代はそういう過程だったことを認めざるを得ません。

自分の「正しさ」に酔わないために
膨大なデータに基づいて「緩やかな身分社会」であることを論じた後、第7章以降で筆者はこのような社会に対する自身の提案をします。ここは本書の白眉なので、ぜひご一読を。平等にしているだけでは格差は埋まらない。では、どうすれば?という議論が展開されます。

個人的には、この問題に関連して、どんなに善意に基づいたとしても、研究結果やデータを無視した場合、その教育制度や実践が「意図ならざる結果」をしばしばもたらすという指摘が印象的でした。

とりわけ、「自由」「子どもの選択」「個別化」を掲げる風越学園のスタッフとして気になったのは、次の主張。少し長くなりますが、そのまま引用します(pp261-262)。

教育制度によって構造化された時間を縮小し、児童・生徒の選択の「自由」を尊重するのが 「小さな学校」だ。部活動・補習・宿題の廃止論などは典型例で、学校にいる時間を減らし、 家庭の中に学校(の課題)が入り込んでくることを「自由」の侵害としている。動画授業や人工知能を利用した学習の個別化も同じく「自由」と個人の「優秀さ」を最大限に尊重する「効率」的な教育といえる。授業時間やカリキュラム量を削減した「ゆとり」教育も学校の介入か ら「自由」にすることを志向したという意味で同じ系統だ。

「自由」による自己選択は理念としては素晴らしい。ただ、もし単純に公教育の役割を縮小するのであれば、「生まれ」は現在よりも直接的に子に引き継がれることになり、厳密な身分社会に近づくことを意味する。事実、2002年に土曜日が休日になったことにより、SESに よる中学3年生の学習時間と高校1年生の読解力の格差が拡大したと解釈できる研究結果がある(Kawaguchi 2016)。「小さな学校」による個人の「自由」の拡大によって「差異化」が進み、結果の「公平性」が脅かされるのだ。同様に、学習を徹底的に個別化すれば、初期の「能力」と親の子育てパターンにSES格差があるので(第2章)、学校の「平等化」機能は弱まり、格差は拡大すると考えられる。「能力」に合わせた「効率」重視の飛び級・留年も同じだろう。

もちろん、価値の相克と向き合った上で、「結果としてより厳密な身分社会になったとしても、個人の自由(な選択)が尊重されるべきだ」という主張であれば、それは一つの意見だ。 後半の耳あたりのよいところだけを主張する偽善(あるいは単なる無知)より、よっぽど建設的な議論に繋がる。

「自由」「自己選択」「個別化」を標榜する教育実践が、「平等化」と基本的に相容れない方向性であることは、自覚しないといけません。自由にすればするほど、家庭教育の影響力が高まって、高SESの家庭の子に有利になる。

また、同じことが「地域に開かれた学校」にも言えるとのこと。地域に開けば開くほど、地域の教育力の差が表れるので、仮に全国の全ての学校が地域に開けば、それは地域ごとの教育格差を拡大させるでしょう。

結果として、筆者の表現を借りれば、一見自由で地域に開かれた学校が、意図しない結果として「より厳密な身分社会をもたらす」可能性は常にあります(もちろん、教育政策と一つの学校の影響力を同一視してはいけないでしょうが)。ではどうするのか。ここが難しい。筆者は次のようにも述べていました。

大切なのは、あらゆる実践・政策・制度の「よい側面」だけを見て「正しさ」に酔うのではなく、相反する価値・目標・機能の中で葛藤し、総体としての「みんな」の可能性の喪失を最小化することなのだ。(p287)

相反する価値の中で葛藤し、それでも一つの価値を選びとって、自分の限界を知りながら、総体としてのベストを追求すること。決して、自分の「正しさ」「耳当たりの良い教育理念」に酔わないこと。自分たちの実践を、研究を参照項にしながら、より俯瞰してみること。

誰もが薄々は感じ取っている、しかし自分の経験を一般化しがちな教育格差の実態を、きちんとしたデータで立証し、今後の処方箋を示す。実践と研究を往還させることの大切さが感じられる本でした。ぜひ読んでみてください。

教師本位でも子供本位でもなく。西尾実の国語教師論レビュー

西尾実の国語教師論

西尾実の『国語国文の教育』「教師教育論」では、国語科教員の物事に対する態度を次のように3つに分けていました(全集1巻p165〜)。

第一段階

規定を規定としてただこれに従い真面目に実行しようとしている段階。

第二段階

規定に縛せられることを屑しとせず、自己の主義主張に基いて自由に児童生徒の個性を養い伸ばしてゆこうという段階。

第三段階

規定のために規定に従うのではなくまた主義や個性をふりかざすのでもなく、ただ己を空しくして忍耐強く道に随順することによって、法規をも、児童生徒をも、自己をも生かしてゆく段階。

「自分本位」「子供本位」への厳しさ

これを読むと僕なんかは典型的な「第二の段階」だと思うのですが、こういう手合いに対して西尾先生は実に手厳しいのですね。

そういう教育者は、生徒の生命を伸ばしそれを力強くすると思いながら、実は教師自身の自我を以てそれを蔽い、児童生徒をして、一時的な自己の追随者たらしめて満足している場合が甚だ多い。

自己の主観に立脚して、教材の見方から教え方まで、あくまで自我の刻印を刻して教えてゆこうとするのは、いかにも全生命を打ち込んだ熱心さのように見えるが、これも教師の個人的主観をもって児童生徒の心を色どり、一時的興奮を与えるにすぎない(後略)

などの言葉が並んでいます。面白いのは、こういう自分本位の教師は、得てして子供を語る際に、「取るに足らぬ些事、ないし矯正せらるべき癖までも、何か特殊な意義あることででもあるかのように」取り扱い、それを「個性の尊重」だと勘違いする、という批判をしていること。こういう教師は、結局「なんらの指導も鍛錬も与え得ず」に終わる、と痛烈に批判をしています。一見「教師本位」と対立的に語られそうな「子供本位」をも、教員の我執に基づいたものと書いた点は面白いなと感じました。

我執を離れて「道」に従う第三段階

そしてこの第二段階を超えた段階が第三段階。単に規定に従うのではないのはもちろん、「教師中心」でも「子供中心」でもない第三段階は、「道」に従うというもの。

真理の前に謙虚に立ち、己がゆだねられた一人一人の生命を尊重し、愛護して余念なき時、始めて生命を打ち込んだ教育が実施される

第三段階の場合には、我執を離れた静かさ清らかさの奥に永遠性が成立し、自覚の深さから生じた白熱の力がある。青年的な赤熱よりも、かくのごとき覚者的な白熱によって被教育者の人格はその根底から陶冶される。

ここはイメージはつかめるものの、実質的にどうするのかは正直なところよくわからない….。ただ真理を追求して道に従うこと。それによって、法規をも、児童生徒をも、自己をも生かしてゆく、それが第三段階ということなのでしょう。とはいえ、この「真理」「道」が何なのかが今の僕にはブラックボックスにも思えるのですが…。

ということで、自分にこの言葉が消化できる、ましては実践できるとは思えないのですが、「自分本位」「子供本位」を超えるという言葉が魅力的に感じたので、ここにメモを残しておきます。いつか読み返した時に、「あれはこういうことか」と思う日が来るかな?

広瀬友紀『子どもに学ぶ言葉の認知科学』

本書はもともと、webちくまに連載していた「宿題の認知科学」をベースに大幅に改稿したもの。だから、連載タイトルが示すように広瀬さんのお子さんのテストの珍回答がたびたび登場する。お子さんの間違いがマクラや呼び水になって、言語の奥深い世界を見せてくれる構成は、基本的には『ちいさい言語学者の冒険』と同じだ。そういう意味であの本の続編と言えなくもない。ただ、対象年齢や切り口の違いもあるし、前著よりも「間違い」そのものよりは人間の認知の仕組みにまで踏み込んだ記述が多めなように思う。

おもしろ言葉ネタから、認知の仕組みの入り口まで

例えば、本書では鏡文字や漢字の書き取りミスについての章(第2章)があるが、もちろん本書は「こんなミスがあって面白い」では終わらない。子どもの漢字の覚え間違いには、漢字の字素=パーツ(部首や音符など)そのものの向きが定着していない場合もあれば、パーツは正しく書けてもそれが正しく配置できない場合もあること、そして、そもそも人は対象をどう認知しているのかという点にも話は及ぶ。この辺の話で印象的だったのは、もそも人間の視覚認知は、向きに関係なく同じ形は同じものとして認識するのが基本で、鏡文字もある意味で自然なありようなのだ、という指摘である。つまり、書くことを学ぶとは、人間が持つ「左右の向きの違いに関係なく形を認識する」能力を、文字を対象とした時だけ捨て去ることを学ぶと解釈できるらしい。なるほど、人間の元々の認知の仕組みからすれば、ずいぶん特殊なことをやってるんだなあ。そりゃあ、間違えるわけだわ….。

この例のように、本書の面白さは、間違いに端を発する言葉の面白話から始まって、人間の認知の仕組みの一端をのぞくところまで連れて行ってくれることにある。他の章では、この手の話での鉄板である語用論の話(第6章)ももちろん面白い。特に、二等辺三角形の中に正三角形を含めない見方は、理系の人からはよく「間違い」視されがちだけど、グライスの会話の公理から言えば妥当なのだとも指摘してて、「正三角形は二等辺三角形に決まってるじゃん!」と思いがちな自分としては、なるほどそうだよねと納得した。また、第3章で英語と日本語における関係節の扱いの違いの話から始まって(この話自体が、日英の比較言語ネタとして面白い)、では、日本語のある関係節に複数の解釈可能性が生じたときに、人間はどちらの解釈を認知的コストが軽いものとして採用しやすいのか、という実験の結果など、とても興味深かった。ここから、人間が言語の意味を理解するときに何を「コスト」として考えるのかもわかるんだなあ…。こんなふうに、言葉の面白ネタから言語の認知科学に「ちょっと」ふみ込むあたりの匙加減が入門書としてとても良い。興味を引いて、あとは文献案内に引き継ぐ感じ。

ちょっと脱線。体育館=たいくかん?

ところで、本書の第5章、音声知覚の話に関連して、読んでいるうちに気になったことが出てきたので、脱線だけどここに書いておく。第5章では、ジャンケンをしてグー=グリコ、チョキ=チョコレート、パー=パイナップルとして、その数だけ階段を上に進める遊びについてちょっとだけ言及されていた。筆者は、チョコレートは5拍なのに6歩進む扱いになっていたことに違和感があったようなのだけど(p161)、ここを読んで、僕も同感だったのを思い出した。だって、グリコ=3歩、チョコレート=6歩、パイナップル=6歩だったら、チョキとパーで同じ歩数になるからゲームとしてのバランスが悪いように感じて….(実際どうかは知りませんが…)。チョコレートは5音なんだし、チョキは5歩が正解じゃないの?と思っていたのだ。

ちなみに妻は、このゲームは音数をカウントしているのではなく、文字数をカウントしているのだ、と説明していました。階段の一歩が一文字を書くに相当する。なるほど、それならチョコレートも6文字だから、6歩になりますね。ちょうど先週、風越で俳句の授業をやっているんだけど、チョコレートの音数を6音と数える子も少なくない。これ、このジャンケンの影響じゃないかなあ? 

そして、この話をTwitterで呟いたところ、雑談はさらに脱線し、「体育」を「たいく」と読む不思議へ。確かに、「体育」は「たいいく」なのに、「たいく」と発音する人が少なくないですよね。特に、「体育館」は多数が「たいくかん」と発音する気がする。この省略はなんで起きるんだろう、「いい」と母音が連続するからかな?

そう思って他の用例を考えたのだけど、大奥おおおく、退院・隊員たいいん憂鬱ゆううつ飼犬かいいぬ会員かいいんなど、いずれも「体育」のようには省略されない。例えば「会員かいいん」は後ろに「証」が着くと「かーいん(しょう)」と「かーいん」化するが、「体育館たいくかん」のように音の数が減る(「かいんしょう」になる)わけではない。結局よくわからなかったのだけど、なぜ「体育」だけ音の数が減るのかな? どなたか教えてください…。

間違いが見せてくれる豊かな世界

とまあ、この本から離れて脱線してしまったけど、読んでるうちに言葉が気になるモードになり、こういう脱線をしてしまうのも、結局はこの本の面白さなのだ。文法、文字、構文、音声、語用論、心的辞書と、言語に関する広い範囲をカバーしているので、国語教師のみなさんはもちろん、言葉に関心のある人なら、どこかヒットするところが必ずあるはず。

個人的には、「間違い」が見せてくれる豊かな世界を久しぶりに楽しんだ読書だった。教師は研究者じゃないから、間違いに対してそうそう寛容でばかりもいられない(訂正をしないといけない)立場ではあるけど、でも、間違いを通して見えてくるその子の頭の中の「正しい」理屈、ちゃんと見られるようにしたいな。この前読んだ今井むつみ先生の算数の本(下記エントリ参照)にも言えるけど、目の前のエラーから、その子がどう考えて、何につまづいてるのかも、もう少し解像度高く、好奇心を持って見られたら、と思う。

創造性の源は、世界を体感して言葉にすること。諏訪正樹「身体が生み出すクリエイティブ」

日常生活にも溢れる「創造性」

まず筆者が強調するのは、創造性とは、一部の天才の特権ではないということ。狭い道ですれ違う自動車の運転手のどちらが道を譲るかという場面や日常の会話など、僕たちの日常は「あ・うんの呼吸」で決まるような創造性で溢れているのだという。言われてみると確かに、AIだったらまだ処理できないようなその場その場の判断を、僕たちは日常的にやっている。これは朗報。頭が固くて柔軟性のない僕にも、創造性の根っこはある。では、どうやったらそれを磨くことができるのだろうか?

悩ましい、知識と創造性の関係

それを考える上で面白いのが、知識と創造性の関係である。筆者はまず、大喜利や図形の補助線問題を例に、創造性とは、常識的なものの見方や考え方、つまり自分の持つ解釈の枠組に縛られずに飛躍することと説明をした上で、解釈の枠組みをいかに外すのかを考えていく。

ここで悩ましいのは「知識」とその枠組みの関係だ。知識がないとそもそも解釈ができないので、知識は必須である。一方で、専門知識に固執すると、着眼と解釈の固定化が起きて、解釈の枠組みを超えることができない。筆者は語る。

知識を常にリフレッシュし、新しい着眼と解釈を求め続けることが、クリエイティブになるための条件であると言えよう。とても難しいことなのだが。(p57)

これは、今井むつみさんが「学びとは何か」で論じていた一流の熟達者の話と同じだ。今井さんによれば、一流の熟達者は、一連の作業の処理が自動化されるほど豊富な専門知識を持ちながら、同時に、その処理のシステムを見直し、意識的に自分の思い込みを破ろうとする。そこに臨機応変さが、つまりこの本で言う創造性が生まれる。

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

今井 むつみ

岩波書店

価格¥968(2022/09/11 11:26時点)

発売日2016/03/19

商品ランキング17,481位

[読書]「熟達」の持つ二つの側面に光をあてる。今井むつみ『学びとは何か』

2016.10.21

知識が創造性の邪魔なのではない。知識にとらわれることが邪魔なのだ。知識を豊かに持ちつつ、それに縛られない。言葉で言うのは簡単だけど、本当に難しい。

意図的に創造的になれるか?

でも、どうしたら「知識にとらわれない」ことを意図的にできるのだろう。筆者は、「自分の知覚の仕方=認識の枠組みがどのようなものか自覚して、それを意図的に封印し、別の知覚を試みる」、常に新しい着眼点を求めるタイプの認知的操作を「構成的知覚」と呼ぶ。この構成的知覚ができれば、知識にとらわれずにすむ。では、どうやって?

ここで筆者は、建築家のスケッチ、お笑い芸人のボケとツッコミ、将棋の羽生善治氏の次の一手などの事例をあげつつ、臨機応変な発想は、膨大な知識からその都度意識的に選択されて適用されるのではないと述べる。

「思考の枠を外そう」とすることが素晴らしい発想を生む、のではない。素晴らしい発想が生まれている時には、自然に枠が外れているだけなのだ。(p109)

創造性の源は、世界を体感すること

なんだか雲行きの怪しい話になってきた。意識的にできないなら、結局生まれつきの素質ってこと? そうではない。構成的知覚の条件、つまり創造性の源として筆者が考えているのは、「身体をその対象世界に入れ込み、あたかも触るようにその世界を見ること」である。

そうすることで、世界を外側から評論家のように観察するのとは異なり、身体と世界が密なる相互作用を始め、その世界に実際に佇んでいるかのような体感や感情が得られる。そしてその体感と感情の発露として、羽生氏であれば次の一手が、お笑い芸人であれば大喜利のあっといわせる解答や、喩えツッコミやボケが、建築家であれば新しいコンセプトの創造につながる発見が可能になる。(p120)

筆者によれば、創造性とは、頭で計画して実行するというよりも、身体の発露として繰り出す身体知なのである。だから、創造性を磨きたければ、その身体知を磨くしかない。では、それはどうしたら?

身体知を磨くための言葉

ここで面白いのが、筆者が「からだメタ認知」として、身体感覚を表現する「言葉」の大切さを強調することだ。言葉というと「頭」のもので、身体とは関係ないように思える。しかし、筆者によれば、体感に向き合い、それを言葉にして留めておくことが、身体知を磨くには非常に効果的なのだという。これについては、前著『「こつ」と「スランプ」の研究』に詳しいので、興味のある方はそちらも読んでほしい。

高橋源一郎「一億三千万人のための小説教室」

これは素晴らしい本だった。小説を書きたいという生徒や小説って何だろうという生徒がいたら、これからの僕は、この本をまず薦めるだろう。ただし、君の予想とは違うかもしれないけど、という注釈つきで。何しろ、具体的な書き方の助言が一切ない。では精神論の本かといえば、ある意味ではとても実用的だ。そのくらい変で、でも素敵な、最高の入門書だと思う。

なにもはじまっていないこと、小説がまだ書かれていないことをじっくり楽しもう

小説の、最初の一行は、できるだけ我慢して、遅くはじめなければならない

待っている間、小説とは、ぜんぜん関係ないことを、考えてみよう

小説を書く前に、クジラに足がなん本あるか調べてみよう

小説を、いつ書きはじめたらいいか、それが、いちばん難しい

小説を書くためには、「バカ」でなければならない

小説に書けるのは、ほんとうに知っていること、だけ

小説は書くものじゃない、つかまえるものだ

あることを徹底して考えている。考えて、考えて、どうしようもなくなったら、まったく別の角度で考えてみる

世界を、まったくちがうように見る、あるいは、世界が、まったく違うように見えるまで、待つ

小説と、遊んでやる

向こうから来たボールに対して、本能的にからだを動かせるようになる

小説は、どちらかというと、マジメにつきあうより、遊びでつきあった方が、お互いのためになる

小説をつかまえるためには、こっちからも歩いていかなければならない

世界は(おもしろい)小説で、できている

小説を、あかんぼうがははおやのしゃべることばをまねするように、まねる

なにかをもっと知りたいと思う時、いちばんいいやり方は、それをまねすることだ

小説はいう、生きろ、と

小説は、写真の横に、マンガの横に、あらゆるところに、突然、生まれる

自分のことを書きなさい、ただし、ほんの少しだけ、楽しいウソをついて

一億三千万人のための入門書

繰り返すけれど、この本には実際に小説を書く技術は一切ない。でも、読み終えると「小説ってこれでいいんだ」と思う。あなたの小説の書き方は、あなた以外の誰も知らないけれど、あなたはきっとそれを見つけられる。それは孤独で自由な道だ。そんな励ましと優しさに満ちた一冊である。そして、「あなただけの書き方」を見つける手助けをしている点では、とても実用的な本とも言える。本当に大切なことはここに書かれている、という気がしてくる。

この本は「一億三千万人のための」とついている。職業作家かどうかなんて関係なく、誰にでもその人だけの小説が見つけられる。そんな、小説と読者への信頼感に裏打ちされた本だとも思う。例文として出てくる小説も変なものが多いことを含めて、好みは分かれるかもしれないけど、僕はこの本が大好きになった。

中澤篤史・内田良「『ハッピーな部活』のつくり方」

世の中には部活を作りたい、頑張りたいという生徒もいれば、嫌だ、辞めたいのに辞められないという生徒もいます。教員も同じです。部活顧問をやりたくて教員になったという人もいれば、(僕のように)部活はそもそも教員の仕事じゃないよ、自分は授業がしたいんだ、という人もいます。

そして多くの人は、自分にとって都合の良いデータや体験だけで部活に言及するので、例えば、部活を巡って、大人と子ども、あるいは子ども同士が議論するとしても、共通の土台になるものがありません。この本は、Q&A方式も織り交ぜた、中高生でも読める読みやすさに加え、部活について一通り基本的な情報が揃っているという点で、その土台になりうる一冊です。

とりわけ、中高生がよく知らない部活の法的位置付けについてきちんと触れてある点は、中高生向けの読み物としてはとても大切でしょう。例えば、内申書での取り扱いやスポーツ庁の部活休養日ガイドラインなど、子どもがよく知らないからこそ、教員側からの無言の圧力に屈しがちなことの多くについて、この本を読めばしっかりと根拠を持って意見が言えるようになります。つまり、子どもが大人とフェアに話をするための情報を与えてくれているわけです。大人が自分に都合よく情報を隠すことは、もう許されません。

同時に、部活顧問を務める教員側の苦悩や事情についてもしっかり書かれています。そもそも部活は「教育課程外の学校教育活動」なので、教育課程の方が優先されるべきということから始まり、教員のブラック労働問題や部活顧問の手当の話まで説明があります。教員の生活やそもそもの役割まで、生徒が読んでわかるようになっているのです。

この本の根底にあるのは、苫野一徳さんの「自由と自由の相互承認」の考え、つまり、自分のハッピーを大事にすると同時に、他人のハッピーも大事にして、それが両立する道を探る考えです。中澤篤史さん、内田良さんという二人の専門家が書いただけあるなあと思いました。部活顧問の先生たちには、ぜひ生徒と一緒に読んでほしいし、部活で何かしら意見や悩みがある生徒にも、ぜひ読んでほしい。とりあえず、風越学園で「部活を作りたい」という子どもが出てきたら、まずはこの本の読書会を開きたい。タイトル通り「ハッピーな部活」を作るための土台になる一冊です。